時々ですが、このような言葉を人から言っていただける事があります。


仕事の中でやあるいはプライベートなどで、相手の立場に立った意見や考えをを述べてみたり、行動をしていると
このような言葉をかけていただけます。
それだけ好印象を持たれたという事はありがたい事ではあるのですが、本音を言うと…
いくら作り笑顔を浮かべお礼を伝えても、内心はすごく辛いです。
しかし、いえいえ、実は毎日のように母には殴られたり蹴られたり罵倒されたりしてましたなんて言えないですし…
筆者が本当に声を上げていいたい事…それは、

という事です。
まぁ全てにおいて虐待を受けていた要素だけが影響しているわけではないです。
時には騙される経験もあれば、人間不信になるような経験も今までたくさんしてきましたし、
それとは逆に他人から大切にされた経験だってちゃんとあります。
そういうもの全てを含めたものが今の僕という存在の集大成です。
しかし、親の教育のおかげかと尋ねられると答えはノーです。
いつもは思い立って外では言えない心の内を今回はブログで表現します。

相手の立場にたって考える事ができるのは、自分がずっと嫌な事をされ続けられていたから
本当に人生とは皮肉なものだなとつくづく思います。
僕にとっては殴られたり罵倒される経験こそがいい経験だったなんて本来であれば堂々と自慢げに言える事ではありません。
だって、暴力を受けるのは痛いし傷つくから。
しかし、理不尽に理由なく殴られ続ける日々を送っていたからこそ、相手はこういう状況の時はこういう心理状態になるとか、心の動きがリアルに僕の身体の中に入ってきます(表現わかりにくいですかね…)
なんていうか、シンクロしているような状態ですね。それだけ人の痛みや苦しみには敏感に反応してしまうようにプログラムされてしまいました。
母親から言葉による罵倒をずっと受けていた事もそうです。
お前には無理だ!バカだ!使えない!と言われてきたからこそ、
人の感情に触れるような言葉を使う時には慎重になってしまいますし、人が持ってる夢や目標を否定する事はありません。
それがどれだけ辛い事なのか知ってるから。自分がされて嫌な事は人にもしたくない!というのはこれらの経験から根付いた考え方です。
その為、相手の為に真剣に考える事ができる。
だからこそありがたい事に僕なんかに相談をしてくれる方もいれば、人として認めてくれる人もいるのかなとも今となっては思う節もあります。

痛い経験から身につけた事が時にはデメリットにもなる。
このような生い立ちの経験から相手の立場に立って物事を模索したり、多角的な視点で物事を見極めようとするにはするのですが、
その事が時にはデメリットにもなります。
あらゆる視点で考えてみようとしてしまう為、自分軸がなかなか定まらない時があるんです。
そうなると自分自身が混乱してしまったり、物事を結論づけるのが大変難しくなってしまいます。
ようは考えすぎてなかなか行動に移せなかったりするんですね。
行動力が伴わないと、頼りないでしょうし…
それで1人で勝手に悩んで苦しむという端から見たら痛い人みたいになってます。

最後に、僕が思う自分が持ってる「痛みの定義」
なんか今日は言いたい事を言いたいままに書いたのであまりうまくまとめきれませんでしたが、
痛みと一緒に共存する事によって葛藤しながら生きてはいるが、時には人から認められ求められて自己認証欲求が満たされる事もある。痛みとは明暗のある表裏一体のもの。
皮肉にも僕を教育したのは母からの教育ではなくて痛みを伴った経験ですね。
いつか僕も、あの経験があったからという言葉を堂々と笑顔で言えるようになりたいです。

つたない文章ですが読んでいただきありがとうございました。
またお会いしましょう。
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